
『メランコリア』と並ぶ今年の私のナンバー1作品である。
アメリカのティーン向けの小説であるところのヤング・アダルト・ノヴェルの中には、シリーズ物としてえんえんと書き継がれていくものがある。出てくる車種や小道具といったディテールは同時代のものに書き換えられどんどん新しくなっていくのに対して、そのシリーズの主人公たちは年を取ることなく、永遠に中学/高校生活をおくるのである。
こうしたシリーズ物の継続は作品のフランチャイズ化といえる。ヤング・アダルトのシリーズは、ある時点で最初にそれを書いた作者の手を離れる。最初の作者は「クリエイター」という名目で表紙に名前が残るが、実際には小説を書いているのは原作の人物設定や舞台を引き継いだ別の書き手である。その書き手の名前は表紙の見返しなどに「Story by」というクレジットで小さく載るのが通例だ。
映画『ヤング≒アダルト』の主人公メーヴィスはこの「ヤング・アダルト・シリーズのストーリー担当」である。「ヤング・アダルトのゴースト・ライター」という設定がぴんと来なかった人にも、これで彼女の立場が分かるだろうか。つまり、ストーリーを書いているメーヴィス本人も、ヤング・アダルトの登場人物たちの終わることのない青春の囚われ人なのだ。同じところをぐるぐる回っている。先に進むことはない。彼女はミネアポリスから自分の故郷であるミネソタの田舎町に帰るとき、昔の恋人がくれたミックス・テープのカセットから、ティーンエイジ・ファンクラブの「The Concept」を繰り返して聞いている。何度も何度も。テープがすり切れるくらい巻き戻して。
田舎から脱出して、曲がりなりにも出版界で働いているメーヴィスは、故郷の同級生から見れば成功者の部類に入るかもしれない。でも、映画冒頭で描かれている彼女の生活を見れば、メーヴィスがまともな大人とはいえないことが分かる。食事も性生活もすさんでいるし、着ている服からして子供っぽい。女子高生のような金色のハートのネックレスをつけている。そもそも住んでいるところも、ロスやニューヨークのような大規模な都会ではなく、ミネアポリスという中途半端さである。この映画で、ミネアポリスが「リトル・アップル・シティ」と呼ばれていることを初めて知った。
高校時代のボーイフレンドに子供が生まれる、というニュースをきっかけに、メーヴは彼を取り戻すべくミネソタの故郷に戻ることを決心する。
元彼のバディは既に高校時代の人気者の面影はなく、ただの田舎のおじさんになりさがっているのだが、メーヴィスにはそんなことは見えない。彼女には自分しか見えていないのだ。メーヴィスが鏡に向かってお化粧するシーンが何度も出てくる。
「あの頃の私は最高だった」と言う彼女にむかって、パットン・オズワルト演じるマットはこんなことを言う。
「君は(高校時代)ハート型の鏡しか見ていなかった」
今も彼女は変わらず、高校時代の女王様の気分でいる。同級生たちは大人になり、誰もまともに彼女なんかの相手をしてくれない。メーヴィスにつきあってくれるのは、高校時代にロッカーが隣だった負け組のマットだけだ。何故ならマットもまた、とある理由で永遠に高校時代に「足止め」されてしまった男だからだ。
マットのことを考えると涙が出そうになる。彼は望んでもいないに、心ない田舎の同級生たちによって、ずっと子供のままでいることを強制されてしまったのだ。マリオ・バルガス=リョサの「子犬たち」を思わせる残酷なエピソードだ。大人になれない彼はフィギュア作りに熱中し、ガレージでバーボンを密造する。彼がメーヴィスに向かって言う「(あの頃は自分史上)最高の僕だったのに」という言葉には胸が砕けそうになる。
マットがピクシーズのTシャツを着ているのが象徴的だ。メーヴィスが繰り返して聞くティーンエイジ・ファンクラブ。サントラに収録されたベルーカ・ソルト。90年代のロック・ミュージックはここでは、大人になりきれない人々の心理を象徴している。これは『Juno/ジュノ』の時から変わらない、ディアブロ・コディ/ジェイソン・ライトマンのコンビ作に見られる、自己批判の傾向だ。
しかし二人は、メーヴィスを残して大人になっていく同級生たちにも容赦ない。彼らもまた、惨めに描かれている。この物語では小さな町の高校を卒業した誰もが等しく敗者なのだ。
ディアブロ・コディとジェイソン・ライトマンは共にジョン・ヒューズ信奉者として知られている。メーヴィスとマットは、『ブレックファスト・クラブ』のクレアとブライアンが大人になった姿のようだ。主人公たちは三十代後半であるが、これは学園映画である。
『ヤング≒アダルト』は、ジェイソン・ライトマンの前作『マイ・レージ、マイ・ライフ』のようには人々に受け入れられないだろう。これは口当たりのいい成長物語ではないからだ。ディアブロ・コディは大人になれない女の物語を描きたかったという。ジャド・アパトーの映画を筆頭として、今のハリウッドには大人になれない男のドラマが沢山ある。基本的に、大人になりきれない男はチャーミングな憎めない存在として描かれる。でも、同じような性質を女性の主人公に与えたらどうだろう。メーヴィスのように痛ましくて、愚かで、とても見ていられないヒロインが出来上がる。それがビターで聡明な女性作家にしか映し出せない、真実の姿なのだ。
どこまでも苦いこの映画の結末を見て、私が思い出したのはアガサ・クリスティの傑作『春にして君を離れ』だった。観客の期待と反するようなこのラストについて、主演のシャーリーズ・セロンはこんなことを言っている。「友達が何度も何度も同じ過ちを犯すのをみんな見ているでしょ? “今度こそは変わってみせるわ!”なんて嘘っぱちなのよ」
それでも、この映画を通して成長する人々もいる。主人公に自分を投影したというディアブロ・コディがそうだ。ここ数年はつまらない美人女優であることから逃れようと、認められたいというエゴ丸出しで役を選んできたシャーリーズ・セロンも、初めて自分に合った役を見つけて大きく躍進した。パットン・オズワルトのように彼女を輝かせた相手役もいないだろう。そのオズワルドも、シャーリーズ・セロンというスターの相手を堂々と務めたことによって、主演男優の貫禄を身につけた。
メーヴィスとマットの絆は「月曜日がやってきたら」もろく壊れてしまうかもしれない。しかしシャーリーズ・セロンとパットン・オズワルトは映画の撮影を通して親友になった。ゴッサム賞でシャーリーズの紹介スピーチをしたパットン・オズワルトを彼女は退場させず、自分のスピーチの間、彼の腰に腕をまわして離さなかった。