2011年11月24日木曜日

アボカドみたいな娘


 エレイン・ダンディの『DUD AVOCADO』は二年前に買って、五十ページくらい読んで、何だか読みにくかったのでそのままにしてしまった本だった。

 今年の夏、もう一度手に取って読み直してみた。

 1958年の発表当時、グルーチョ・マルクスが大絶賛したというカルト・クラシックだ。アーウィン・ショウ、テリー・サザーン、ゴア・ヴィダル、そしてヘミングウェイまでもが、このアメリカの愚かな小娘のパリでの冒険譚を愛した。

 「ティファニーで朝食を」ミーツ「パリの恋人」、あるいは50年代版「ブリジット・ジョーンズの日記」という触れ込みのこの小説、私は読みながら数ページごとにつぶやかずにいられなかった。

 なんてバカなの、サリー・ジェイ・ゴース

 アメリカの上流階級から逃げたくて逃げたくたまらなくて、十代の時から何度も家出を繰り返してきた娘。彼女を見かねた変わり者の伯父から財産をもらって、パリに自由を求めてやってきた。でも、サリー・ジェイが望む「自由」とやらは一体何なのか。それはサリー・ジェイ本人にも分からない。

 ボヘミアンを気取って夜通しクラブで遊んで、イタリア大使館の男と不倫をしたと思ったら、演出家志望の同郷のハンサムを好きになって、急に舞台女優なんか目指したりして。行き当たりばったりに男と寝たり、移り気に恋をしたり。でも、本当に欲しいものは見つからない。

 サリー・ジェイ・ゴースはデイジー・ミラーなのだ。デイジー・ミラーが一人称で語ったら、こんな風に軽薄で、浅はかで、おっちょこちょいに違いないというそんな女の子。デイジー・ミラーと同じように、ヨーロッパの男たちにとってサリー・ジェイはネギをしょったカモだった。分かっているはずなのに、いちいち傷つくサリー・ジェイ。あんたは何てバカなの。

 だけど、バカな小娘の目で見た世界は何と美しく、明るく、驚きと危険に満ちていることだろう。

 そして自分の中にも、こんなバカな小娘の部分がまだ潜んでいて、何だかいろんなことに眩しさを覚えたり、せつなくなったりするのだ。

 『DUD AVOCADO』は、才能があるのに性根が腐っている男子に心がひかれがちな女の子の痛々しい片思いの物語でもある。サリンジャーの『倒錯の森』にもよく似ている。

 彼の中に潜む才能は、彼の魂の美しさと直結しているのだから、きっとそれが人間性として育つはずだと女の子は確信して、才能以外の面に関してはしょーもない男子に期待をかける。人間性を育てないと、才能自体が腐ることも女の子は直感的に知っている。でも所詮他人の才能は他人のもの。それを育てるのも、腐らせるのも、本人の自由なのだ。サリー・ジェイは相当痛い思いをしてそれを学ぶ。

 それが、英国演劇界の風雲児ともてはやされながら、生まれつきの性格が邪魔して偉大な演劇人になれなかったケネス・タイナンとの結婚でエレイン・ダンディ本人が知ったことだと思うと悲しい。

 きっと当時は新鮮だったのだろうコミック・シーンは間延びしているし、小説自体ももっと短かくタイトにまとめたら、カルトではない本当にクラシックに成り得た惜しい作品だとも思う。

 だけど、そんな欠点すら不思議に愛おしい。心の中がお喋り口調の細切れの思考でいっぱいになっている、サリー・ジェイのことをきっと忘れない。

 ちなみにタイトルは「熟していないアボカドの出来損ない」みたいな意味。「アメリカ娘はアボカドみたいだ、数年前まで(ヨーロッパでは)誰も知らなかったのに、今では街中に溢れている。中身はいつもグリーン(若く)で柔らかい」というエロ親父の言葉を聞いて、じゃあ私はアボカドの出来損ないなんだな、とサリー・ジェイは自嘲気味に思うのだ。

 私が読んだのはNYRB Classicの版だけど、今年出たViragoの版の表紙も可愛いと思う。