
ラス・フォン・トリアーが大嫌いだ。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』というクソみたいな作品を撮った監督である。
『ドッグヴィル』もダメだと思った。
露悪趣味はともかく、その世界観の根底にあるものが幼稚に見えて仕方ない。
『ミラノ、愛に生きる』を撮ったイタリア人の監督、ルカ・グァダニーノは彼を指して「お母さんに振り向いてい欲しくてしょーもない悪戯をする子供みたいだ」(大意)と言っていた。カンヌ映画祭のナチス発言の前の話である。
ところが、そんな男が傑作を撮った。
今年の私のナンバー1映画だ。どうすればいい。
幸せなんか信じられないのに、豪華な結婚式を開きさえすれば、まともな道に入れるのではないかと信じて破滅する女の話である。
幻想的で、虚無的で、美しい真夜中の結婚式が進行していく内に、ヒロインのジャスティンはどんどん壊れていく。しかし彼女の破壊的な行動の全ては、自分を地べたに引きずりおろそうとするような憂鬱を振り払いたいがためなのだ。
でも、本当は結婚式のその先に幸せな人生なんかないことを彼女は知っている。あるのは「無」だけ。その虚しさに彼女が自分を明け渡した瞬間、アンタレスは消えて惑星「メランコリア」が現れる。
ワーグナーが鳴り響く中、物語をいきなり総括するようなオープニングの映像からしてゴージャスだ。詩的な世界の終わりの描写はタルコフスキーの『サクリファイス』を思わせる。
でも、一番似ている映画を挙げるとしたら、それは『ドニー・ダーコ』だ。
もっと似ているものがある。アンナ・カヴァンの小説である。頑な女の中に眠る砂嵐のような虚無が世界を飲み込んでしまうという、これは究極のセカイ系乙女SFなのである。
そんなヒロインを演じるのに、キルスティン・ダンストほどの適役がいるだろうか。この十年、彼女はアメリカ映画における少女性の象徴だった。『バージン・スーサイズ』ではそれは、ひとつの時代と、サバービアの街と、そこに育った少年たちのイノセンスの終焉に捧げられる生贄でしかなかった。『メランコリア』において彼女の少女性は肥大し、逆に世界を破壊するまでに至ったのである。
そんなモンスターとなった少女を形成したものは何か。それがちゃんと家族の関係性の中で描かれているんだから驚く。今までのトリアーのぺらっぺらの世界観で作られた映画からは考えられないような精密さである。ルックス的に姉妹に見えるかどうかは置いといて、シャルロット・ゲンズブール演じる姉クレアとジャスティンの関係も「正しい」。姉妹を描いた映画として本当によく出来ているのだ。
トリアーにとって彼の映画のヒロインは、汚辱にまみれることによって彼の魂を救ってくれる天使だった。その世界観が心底嫌だった。でも今回、彼は多分、初めてヒロインに自己を投影したのだ。その結果、共に鬱病経験者の監督と女優は驚くようなケミストリーを発揮したのである。
しかしどうしてもキルスティンしか考えられないようなこのヒロインを、本当はペネロペ・クルスに当てて書いたっていうんだから、やっぱりラス・フォン・トリアーはしょうもないと、ちょっと安心するのだった。