山下陽子さんによる表紙がいつも麗しいインディ雑誌、シネ・アピエにまた寄稿しています。今回のテーマは「少女たち」。入手出来る場所などは、サイトの方を参照して下さい。
さて。この雑誌のために書いて、自分でボツにした原稿をここにあげておきたいと思います。
ボツにしたのは、「外国映画」の少女という原稿の条件を見落としていたことに書き上げてから気づいたからなのですが、字数も圧倒的に足らなかった。しかし「映画と少女」というテーマに対して、私の中にはこれ以上の題材もないし、何らかの形にしたいと常々考えていて、書かずにはいられなかったのです。これでは書きたかったことの半分にも満たないのですが。だからこれは、いつかきちんと書く文章のテスト版なのだと思って読んでくれるとありがたいです。
映画の中の少女たちを見るとき。
私には、撮影を待って長時間ロケバスの中でお菓子を食べ散らかしたり、こっそり煙草を吸ったり、音楽に合わせて踊ったりしている、十代の女優としての素顔の彼女たちの姿がスクリーンに二重写しで見える。
彼女たちはラジオからお気に入りの曲が流れると本番中でも平気で大声で合唱して、音声スタッフにこっぴどく叱られる。長期ロケのために泊まっているホテルの部屋は、中で嵐が起きたかのように荒れ果てて、スナック菓子や空き缶や脱ぎ散らかした服や化粧品が散乱している。バスルームには水洗いして適当に絞ったブラジャーやパンティがシャワー・カーテンのポールにかけられていて、溶けかかったキャンディみたいに甘い水滴を垂らしている。
彼女たちはお互いの髪を梳かし合い、器用に、あるいは不器用に手鏡片手に自分でメイクをほどこす。くすくすと笑い、オーディションや事務所の情報を交換し、性体験について少し誇らしげに語り、幼い演技論を戦わせ、些細な失敗が原因で自分のキャリアに傷がついたと言ってはヒステリックに泣く。
ある少女はある少女が嫌い。ある少女は主役格の少女に絶望的に憧れている。あるいは憎んでいる。
二ヶ月か三ヶ月の間の擬似恋愛の相手として共演者の男の子やスタッフを品定めし、与えられた大したことのないセリフに重大な意味を見つけようとして何度も読み返し、長すぎる待ち時間に疲れ果て、居眠りして、本番の声がかかる頃には緊張感の糸がぷっつり切れている。そんな少女たちに苛々しながらも、動物使いのように彼女たちを操り、私は女優よという自意識とは無関係なところにある少女たちの姿を、隙を見てはフィルムに焼きつけようとする大人たちの姿も見える。
何故なら私はそこにいたから。
十七歳だった。一本だけ商業映画に出た。でも、私は自分が映画の中の少女ではなく、たまたま居合わせた余所者か、「映画の少女たち」に紛れて彼女たちの姿をこの目で観察するために呼ばれたスパイのような気がしていた。事務所や劇団に所属していないのも、芸能人学校に通っていないのも私だけだった。普段の生活では付き合わないような、華やかで、プライドが高くて、世間ずれしているくせに妙に幼くて危うい女の子の集団の中で自分の地位を築くために、私は実際よりも性的な経験が豊富であるかのように見せかけた上に、霊能力があるふりをした。
私はあの映画の主役のオーディションを受けて、選ばれて撮影に参加したはずだった。映画の監督から直々に声をかけられたのだ。その前年に、私は監督が演出した舞台に出演していた。
学校で人気者になれるタイプの女の子ではないけれど、もしかしたら、自分は舞台やスクリーンならば輝くタイプかもしれない。十代の少女がぼんやりと抱くそんな幻想は、私の胸の中にも巣くっていて、時折、蝶々のようにざわめいた。自尊心を抱くだけの小さな根拠もあったのだ。舞台を見た映画監督の一人が、出演者の中で私が一番いい、印象的だ、主演映画を撮りたいと言ってくれたのだ。カルト的な人気を集めるパンク・バンドのドキュメンタリー・フィルムで有名な人だった。
主演女優を夢見る私に、舞台を演出した監督が言った。でもね、君はものを書くことをやめない方がいいよ。君は僕と同じで世界を外側から見ている人だからね。
そう言ってくれた青年が、後年、少女を買った罪でつかまった時、私は何を感じただろう。
映画のテスト試写を見て、私は自分が映画の少女ではないことを嫌というほど思い知った。あなたの役、ろくなセリフもないじゃない。大騒ぎして学校まで休んで撮影に参加したのに、まるでエキストラと変わりがなかったわ、と見に来た母に言われた。彼女は正しかった。出番があれ以上多かったとしても、私はまったく光らなかったと思う。
映画の中の少女というと、私はいつもこの映画の撮影現場を思い浮かべる。主演の少女が田舎の畦道を走るシーンを、クレーンで撮影した日のことだ。クレーンがせり上がっていく横で、出番を待つ私たちはレベッカの曲を歌っていた。撮影が中断するたびに、主演の少女も戻ってきて私たちに加わって一緒に歌った。映画が小規模で公開された一年後、道を歩いていて、私の名前を呼ぶ彼女の声を聞いた。ボーイフレンドが運転する車の窓から乗り出して、主演女優の少女は本名ではなく、自分の役名を告げた。その一瞬の再会が懐かしくてせつなくて、彼女の笑顔が流星の尾のように光を帯びて遠ざかっていく姿を今も思い出す。田舎の畦道でカメラを乗せたクレーンがせり上がっていくのを見て、自分の視点が同じように舞い上がり、何度も畦道を走る主演の少女とその横で歌う私たちの姿をとらえた瞬間を今も思い出す。ああ、これが映画なんだとその時思った。私たちは映画を撮影しているのだ。少女たちがスクリーンに躍り出す時、そのプライベート・フィルムが重なり、私の呼吸はいつも止まりそうになる。