映画のスチールを使ったやつではなくて、Vintage Classicから出ているリチャード・イエーツの小説シリーズの表紙が素晴らしいという件について。





もしかしてリチャード・イエーツの小説は、同時代にマンキーウィッツかダグラス・サークによって映画化されたらよかったのかもしれない。
ようやく公開になったので、前に書いた感想も再録しておこう。
(あえてあらすじは書かず)
今年(2008年)見たなかで、最も撮影が美しかった映画。
『ジェシー・ジェイムズの暗殺』といい、『WALL-E』のビジュアル・コンサルタントといい、今年のベスト撮影監督は文句なしにロジャー・ディーキンズだね。
サバービアの夫婦を襲う「絶望的な虚無感」についての小説や映画は、百を超す数ほど読ませられたり見せられたりしてきたけれど、(原作の)リチャード・イエーツの作品は中でも最もあけすけで、非情な作品だと思った。
ラスト・シーンでその非情が極まるので、これは絶対に原作の幕切れをそのまま使ったのだと思って原作本を確認したら、やはりその通りだった。
キャシー・ベイツが演じる不動産の仲介人が、ケイト・ウィンスレットに苗木を持ってくるシーンと、ラストにベイツが抱えている犬には、原作ではちゃんと意味がある。あれだけ丁寧にあのシークエンスが撮られているということは、それに付随するシーンもちゃんとあったはずなのだけれど、編集で切ったのだろう。まあ正しい判断。ラストのパートは短ければ短いほど非情さが増す。
演出は好き嫌いが分かれそう。演劇的な、あざとい上手さのオンパレード。しかも、ほとんどは(素晴らしい光が溢れる)室内で、主役二人ががなりあっているだけなので、うんざりする人も大勢いるだろう。ディカプリオは一本調子で怒鳴っているだけだし。この役が似合い、かつディカプーより大人の顔で百倍演技力がある俳優はいくらもいそうだが、その人たちでは制作にゴーが出ない。それが大人の事情。
ケイト・ウィンスレットは、原作のイメージにぴったり(少女時代の楚々とした魅力は失われていないが、腰回りや太ももに肉が付き始めた二児の母)。それにしても、作者の、アメリカ男性の、いいやもっといえば男性全般の心に宿命的に潜んでいるミソジニーが反映された女性像であることよ。ある種のアメリカ文学には付き物のキャラ。でも日本文学にもこういう女性は大勢出てくる。ネット等で仮想敵として描かれる女性像も…。(アメリカの)男たちは、女を憎んでいる。同時に、絶望的なまでに女に愛されたいと願っている。その気持ちは裏表であるどころか、何の矛盾もなくひとつに結びついているので、それを受け入れてもらえないことに、戸惑い、腹を立てたりする。私の中の男性性をフル稼働しても、そういう感情が「ある」ということを認識するのが限界なので、この感情については男性がきちんと分析して、根底にあるのは何かを解き明かして欲しい。そうすれば、男も女ももっと生きやすくなると思うのだが、どうでしょう。それでも、ケイト・ウィンスレットは頑張って、エイプリルという浅はかで夢見がちで理想主義者でタフであるが故にもろいヒロインに深みを加えている。オーストラリアのケイト対決、『ベンジャミン・バトン』のブランシェットよりは、『レボリューショナリー・ロード』のウィンスレットに軍配を上げたい。
ディカプーが手をつける会社秘書がロリータ顔で印象に残ったので、だれかと思って調べたら噂のゾー・カザンだった。エリア・カザンの孫娘。
年月を重ねていくことはより複雑に、豊かになることではなく、ただ輝きをなくしていくことなのだというアメリカ文学らしい人生観を物語る作品だ。生前は不遇だったリチャード・イエーツ、アップダイクやヴォネガット、そしてタオ・リンが敬愛している理由がよく分かった。